2001年4月 : スペインユースリーグ

『リーガ・エスパニョーラ』(正確には昨年からスポンサーの関係で1部リーグをリーガBBVAというが)にたどり着くには、100年以上フットボールの歴史を誇るスペインのシステムが完璧に機能している。 強く優れた選手、スタッフ、育成システム、地域貢献、財政力どれが欠けてもリーガBBVAにはたどり着けない。

2000年夏、スペインでのキャリアをスタートしたオスピのユースは、ユースリーグの2部。
1部はディビシオン・オノールと呼び、バルサやバレンシア、エスパニョールなどエリート集団がひしめき合うユース最高峰のリーグ。 その下のリーグに位置する2部はナショナルリーグといいバルサユースB、エスパニョールユースBといわばユースのサテライトリーグである。 と言ってもレベルも高く、このサテライトでも頻繁に移籍が繰り返される。 バルサユースBで出場できないとユースチームといえども移籍をすることになる。
現実的には、バルサユースからオスピクラスに移籍をするとなると「左遷」に近いものがあるが、まず選手は試合に出ることを最優先に考え、活躍する場を確保する。 移籍ができない選手に関してはさらにレベルダウンしたクラブを探すことになる。
厳しいようだが小中学生で退団を余儀なくされるのも、スペインの現実である一方、いい選手こそが上に吸い上げられるシステムになっている。

この年のオスピはサンティ監督のもと、チームは一丸となり戦い、ナショナルリーグではバルサB、エスパニョールBに続く強さだった。
私のトレーナー人生でもベスト3に入る印象的な試合となるリーグ最終節。ホームで迎えたバルサB戦との試合、オスピはコルネアというチームと昇格の最後の1つの椅子をかけて争っていた。 ディビシオン・オノールに昇格するにはなんとしてもこのバルサ戦を勝利しなくてはならなかった。
オスピはバルサに勝てば昇格。引き分け以下ならコルネアの結果次第という両チーム厳しい状況である。

試合は、前半バルサに1-3で追いつめられる。
ハーフタイムでサンティ監督が叱咤するも、後半バルサ相手に巻き返すのは非常に困難。私も半分あきらめていた。後半は、依然スコアは変わらず残り12分となりドラマはここからはじまる。

膝の大けがで8か月チームを離れ私とコツコツリハビリしていた選手がゴールを決め2-3にする。そのままロスタイムへ。もう終わりが近づいていた。 ベンチでマネージャーよりコルネアの結果が届く。コルネアはロスタイムに入り引き分け。 この時点でコルネアが昇格をつかみかけていた。オスピは1点入れて引き分ければ昇格になるが、その1点が届かない。ベンチでは全員で何とか1点を願う。
ロスタイムももう1分切ったところで今季、オスピにビジャレアルユースから助っ人で入ったマウリーというFWが土壇場で同点ゴールを決める。 スコア3-3で盛り上がるベンチ。これで昇格が決まったと喜んでいたら、残りワンプレーでさらにマウリーがペナルティ外40m近いロングシュートを鮮やかに決めて試合終了、4-3と逆転。

残り12分で3点を叩きつけバルサを沈めて自力昇格を決めた。全員でピッチに駆け込んでお祭り状態。 こんな感覚は初めてだった。全員で喜んでいるところにマネージャーが駆け寄り「コルネアがロスタイムPKを取りゴールして逆転勝利した。」という。
つまり、最後ワンプレーのマウリーの逆転ゴールがなければオスピは昇格できなかったのである。 ほかの選手やスタッフはそんなこと、お構いなしでシャンパンをかけ合い喜んでいたが、私は凍りついてあまり喜べず、スペインのフットボールの厳しさを体験した。

申し訳ないが、日本の部活やクラブと比べることいろんな意味でレベルが違いすぎると感じた。どのカテゴリーにしろ、毎年こんな試合が繰り返されていると思うとスペインの強さがよくわかる。
この試合でゴールこそ決めなかったが、常にゲームメークしていたオスピ10番のパコというMFは天才的なテクニックを持っていてバルサCに入団する。 月給は10万円くらいだっだか。しかし、2年目にはバルサを解雇されてしまう。オスピで天才といわれてもバルサのCでは通じない現実。1年目のオスピは私にとって本当に勉強になった。つづく。

山田 晃広

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