2000年7月 : オスピ入団へ

2000年7月無事ビザの申請も終わり、ひとまずバルセロナに拠点を置くことができました。
次のステップはサッカーチーム探しです。
立場は留学生ですが語学を学ぶことだけに来たわけではないのでここからが本当の目的を達成するために動かなくてはならなかった。
羽中田さん(現カマタマーレ讃岐監督)からの紹介で、Hospitalet(オスピタレット)というバルセロナ市内から20分ほど離れた郊外のローカルクラブのユースの監督を紹介してもらいました。
1992年、バルセロナオリンピックの野球場として使用されたスタジアムを改造してサッカー場にした風変わりなスタジアムを持つ1959年創立のフットボールクラブ。
ユースの監督はサンティ・ポウ。彼は私に「申し訳ないが、お給料など出ないがそれでもいいか?」と言うが、言葉もできないどこの馬の骨か分からない外国人を入団してくれるなんてそれだけでうれしかったので「よろしくお願いします!」と即答。
スペインのほとんどクラブがレベルの違いはあるものの、トップチームと育成カテゴリーをいくつか持っている。オスピタレット(通称オスピ)はトップチームから育成カテゴリー7つを抱える割と大きなクラブ。私が最初に担当したのはサンティ監督のカテゴリーのユースチーム。
練習初日の挨拶はとても緊張したのを今でも覚えている。
ちゃんとスペイン語であいさつできるか、怪我の報告を監督に伝えられるか、
東洋人だと馬鹿にされないか・・様々な思いが自分を緊張させていた。
20人ほどいるユース選手は明らかに日本人より大きい。すでに80kgを超えるFWもいれば、190cm近いGKもいてまず体格の違いに驚く。しかし、さすがはラテンの子供たち。
明るくフレンドリーに話しかけてくれたので、ひと安心。
オスピはトップチームこそ、監督・コーチ、フィジカルコーチ、トレーナーとスタッフが、充実しているが、育成ともなるとスタッフも乏しく、120名以上超える育成部門のトレーナーは私ひとり。メディカル道具もなければ、飲料水も水道水。
何もないところからのスタートだった。まずは自分でトレーナー道具を揃える(自己負担)
バルセロナの夏は気温も高く、ぬるい水道水では胃腸での水分の吸収も悪いので、家から毎日、大量の氷とアイスボックスを用意。 少しでも水道水のカルキ臭さを抜くために、レモンや微量の砂糖もいれて飲みやすいようにアレンジもした。監督への怪我や報告は、トレーナーバッグにスペイン語辞書と、メディカル用語辞書をいつも忍ばせて、選手や監督には図で説明していた。
何もないのも大変だったが、裏を返せば、思うがままトレーナー活動ができたのがとてもうれしかった。道具は選手一人毎月1000ペセタ(800円)徴収して備品を揃え、食事やサプリメントの提案も積極的に行い、自分の力で、自分のできる立場でチームを変えていきたかった。夏の間はシーズン前なので昼間の練習ですが、シーズンに入ると夜の20時から22時までが練習。そこからケアをして片付けをすると帰宅はいつも夜中12時くらいだった。
午前は、語学学校、昼から夕方にかけて日本人を相手に治療をして少しでも生活費を稼いだ。
サンティ監督は練習後、毎回私を自宅まで車で送ってくれて、離れていた距離も徐々に埋まってきた。彼はいつも私をリスペクトしてくれ、外国人扱いを決してしなかった。
給料や私の生活もちゃんと考えてくれて、後日改めてお知らせしますが、翌年オスピのトップチームに私は就任するのですが、オスピの会長に私を推薦してくれたのもサンティ監督である。
羽中田氏、サンティ監督、両名は私の人生を大きく変えた欠かすことのできない大きな存在である。
つづく。























